There's Something About Jonathan 和訳 Pt.1 P13~P17
先月、ジョナサン・リッチマンの自伝を買ったのですが、洋書なので何が書いてあるのかさっぱりわかりません。
なので、今回から勉強ついでに少しづつ、当書の日本語訳を載せていきたいと思います
洋書の翻訳は初めてなので、読みづらい文章となっていることご了承ください。
・INTRODUCTION 〜序章〜

ずっとジョナサンは画家になろうと考えていた。
なぜなら、それこそが自己表現において最良の方法だと思っていたからだ。
しかし、The Velvet Undergroundの演奏を見て、彼らの持つ魔法の虜となり、自分でもやりたいと考えた。
ジョナサンはソロでキャリアをスタートさせたが、程なくして「The Modern Lovers」というバンドを組むことになる。
ジョナサンの集めたメンバーはすぐに彼が望む以上のものとなった。
バンドは未熟ながらも、鋭く強い感情が入り混じっており、その音楽的知識と素直な運動が彼らをThe Velvet Undergroundの後継者にさせた。
The Velvet Undergroundはその先駆的な偉業にも関わらず、少ない報酬しかもらえなかったが、
The Modern Loversには商業的成功を収められる期待があった。

しかし残念なことに、バンドには自らをも破滅に導く種のようなものが始めからあった。
ジョナサンは自分が感じた気持ち、見え方などを広く伝えるための媒体としてバンドを作りげていた。
しかし、一度これを達成し、相互間の適切なコミュニケーションが成立してしまえば、当然のように彼の孤独感は切れ味をなくしていく。
そして、メッセージも否定的なものから肯定的なものへと移し変わっていった。
73年半ばワーナーは彼らと契約を結び、彼らは成功との境界ににいた。
だが、新たなメッセージを伝えるためには、従来のメンバーではなく新生Modern Loversを彼は必要としたため、バンドメンバーの入れ替えを行なってしまった。
新しく入ったメンバーは前任者と同じくらいの情熱を持っていた。
ジョナサンの肯定的なメッセージはファンに対し必ずしも好意的に受け取られなかった。
が、バンドはたくさんのリハーサルを行い、ヨーロッパツアーへ、その結果コンサートホールを埋めることに成功した。シングルEgyptian Reggaeはヨーロッパ中でヒットし、3度のチャートヒットを得ることに成功した。

ジョナサンは、過去の自分を取り除き、もう一度将来に目をむける時間が来た。
バンド活動もそうだ。1979年に2度目のバンドも解散し、彼はボストンへ帰った。
それから5年間、アルバムの発表は行わなかった。
ジョナサンは2度、有名になるチャンスを拒んだ。
しかし、2度目の時は彼の願った形に近いものだったし、彼もそれを楽しんでいた。
そして今、ジョナサンは自分でしたいことを決められる。どこへ行くのも、何をするのも。
20年間、ジョナサンはしたいことをしたい時にし続けている。
何年もの間、ニールヤングは自身のレーベル「Vapor」に彼を誘い続け、映画監督のファレリー兄弟も大ヒット映画「メリーに首ったけ」の音楽製作を彼に依頼した。
そして、有名TV番組のホスト、コナンオブライエンも彼にトークショーの出演オファーをかけていた。
彼はその全てをこなし、楽しんだ。

でも、本当に素晴らしい瞬間は聴衆の前で歌っている時の彼だ。
ユニークなパフォーマンスと心地のよい雰囲気は、他の誰とも比べることができない。
彼は聴衆の心に入るために、ダンスや笑い、神話や感情の追体験を利用する。
あなたがどこかで彼の卓越した、表情豊かなギターの音色を耳にできることを私は願っている。
それこそが彼の常にしたいことなのである。
・I GREW UP IN THE SUBURBS 〜第1章〜

ジョナサンリッチマンは1951年5月16日にボストンで生まれた。
彼の母親は学力の低い人向けの読書指導教員であり、父親はセールスマンであった。
この時期の環境や景色が彼の見解や行動、また初期の音楽性に対し深い影響を与えている。
この頃から、彼は自身の気持ちを可能な限り正直に表現することに努めていた。
彼の両親は定型的な人間であった。しかしジョナサンはその反対だった。
後のモダンラヴァース創設者となるJohn Felicは当時近所に住んでおり、その頃のボストンをこう振り返る。
「ただの退屈な郊外さ。似たような平屋の家がいっぱいあって、本当に醜くく興奮することなど1つもない、死んだ街のようだった。」
彼の両親がボストンに心地よさを感じていても、ジョナサンの心の中は常に出て行くことと、自分の限界点を広げることでいっぱいだった。
ジョナサンは長男である。彼の音楽的な影響は早いうちに始まった。
後のインタヴューでは、2〜3歳の頃に両親の歌を聴きいたその時から、音楽に強く心を動かされたと、語っている。
5歳の頃までは絵を描くことと、女子を追っかけることにだけに時間を費やしていた。
しかし、彼の愛情に対する返答は失敗や挫折ばかりで、それが彼を困惑させ傷つけた。
彼には数人の友達しかおらず、彼は周りとの人間関係に常に疎外感を感じていた。
初期の曲に見られるような孤独は、この時期からすでに彼の生活内に広がっていたのだ。
3歳から7歳ごろの間、彼は良く夢を見ていた。
彼は後にそれを「掴みどころのないもの」と表現した。
それは、その夢の内容においてもそうであり、それらを無意識から意識へ、現実へ、経験へ、記憶へと変換することができなかった点においてもそうだった。
夢は思春期や大人になってからも、彼の中で重要であり続けた。
大人になった今では、夢にアクセスしたり、影響を与えたり、かつて望んでた「変換」を実現でき、夢の状態と現実はもはや同じものだ主張している。

孤独であったにも関わらず、後年インタビュー内で自身が受けた当たり障りのない教育方法が自身を形付けたとも語っている。
彼の両親は正直で、品が良く働き者であった。
彼らは息子の成功を熱望していたが、ジョナサンにとっての成功とは自身の気持ちや社会の情熱、誠実さを主張することにあった。
彼らの属していた生真面目な社会にとって、それらの願望は必ず失敗するだろうとみなされていた。
しかしながら彼の両親は彼を信頼し、息子の夢に対する失望とうまく対峙しながらも、彼の初期のキャリアを支えたのだ。
彼を理解することが困難であっても、彼への愛はしっかりとそこに存在していたのだ。
ジョナサン自身、自らの考えと彼らの考えが大きく異なっていたとはっきりと示しながらも、彼らの教育方法を批判することは1度もなかった。

もしジョナサンが誤解され、家庭内で孤立したていたら、多くの時間をしつけの厳しい学校で過ごしていただろう。
彼は常に学校からの逃避を望んでいた。
しかしながら反乱という形をとっても、それは短期間の問題解決策でしかないこともわかっていた。
そのため、彼は従来の方法ではないやり方を行った。
それどころか、彼は当たり前のことだと思われていたルールを破壊したのだ。
ある日、彼はズボンに二つの丸を書き込み、校長室へと呼ばれた。
校長がどういうことかと尋ねると、彼はエレキギターのベースとトレブルのノブを描いたのだと答えた。
これは1962年のことだ。彼はすでにロックンロールを発見し、それこそが彼の人生を救ってくれると考えていたのだ。
その時期から、トランジスタラジオが彼の親友となった。
その出来事の前年、リッチマン家はニューヨークへ訪れていた。
現地のロック音楽に影響を受け、現実世界の2つの脅威が明らかになり、彼の目に新しい光景が映った。
制限された教育など、どこか遠くへ行ってしまったのだ。
彼の野望はできる限りすぐに学校を去り、新しい世界を探索することだった。
しかしながら、両親は未来のためにも何らかの仕事が得れるように勉強を続けることを切望した。
両親の説得もあり、ついにはジョナサンも卒業式の日まで学校へ通った。
(学校の終わり頃には、両親は彼に学校を続けるためお金を払わなければならなかった、彼自身も後に自分が学校を続けられたのはロックンロールのおかげだと語っている。)

1965年。ジョナサン自身の音楽体験が始まった。
最初の楽器はクラリネットであったが、数年後には長い付き合いとなるサックスフォンにその位置を取られてしまう。
翌年には父が買ったくれた、アコースティックギターでの演奏も始めた。
(父は後に最初のエレキギターとアンプもプレゼントしている。)
60年代中頃、ロックンロールは速度を上げて向上していった。
彼の好きな音楽は少年時代に聴いていたものであったが、彼も新しい波の登場に気がついていた。
1967年の初めに彼は、今まで一度も聞いたことのない音楽をラジオから耳にする。
そのバンドこそがThe Velvet Undergroundである。

そして間も無く、彼の友人が1stアルバム「The Velvet Underground&Nico」のコピーを入手し、ジョナサンも友人と共に聴くことなる。
実のところ、友人はそれを全く気に入っておらず、一度ジョナサンに聴かせた後、処分しようと考えていたのだ。
レコードが流れる間、ジョナサンの頭の中は、どのレコードと交換しようかということで一杯だった。
彼の友達はB面をかけた。
B面1曲目「Heroin」冒頭の鋭いギターサウンドを聴いた瞬間、ジョナサンは偉大なものへの震えを感じた。
彼の中でこの音楽は自分自身に語りかけているのだという認識も芽生えた。
彼はVelvet Undergroundの曲の中に、誠実さと正直さ、そして力強さと美しさを見出したのだ。
そしてそれこそが彼に影響を与えたのだった。
…続く